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富士山の北西麓に、大室山と片蓋山という山がある。その両山の間にある2つの山の名前が、文献によって入れ替わっていたり、まったく違う名前になっている件について調べた。
大室山の南東 & 片蓋山の北西が、
栂尾山 & 鹿の頭
鹿の頭 & 猪ノツブレ
の2説あり。山名の読み方はいろいろな資料を参考にした。
大室山の南東が「栂尾山」、片蓋山の北西にあるのが「鹿の頭」。
資料 | 備考 |
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石原初太郎(1925. 大正14年)『富士山の自然界』. 山梨県 70. 片蓋山に北接せる鹿の頭、ツガヲ山など今迄知られなかつたものまで側火山の目錄中に加へなければならぬ |
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石原初太郎(1928. 昭和3年)『富士の地理と地質』. 古今書院 鹿の頭 及び ツガヲ山 |
復刻本が出版されている 『富士の地理と地質』名著出版, 1973. 166-167 |
津屋弘逵(1968. 昭和43年)『富士火山地質図』工業技術院地質調査所 | 地図上に、栂尾山と鹿の頭が明記されている ただし、 |
津屋弘逵(1971. 昭和46年)『富士山総合学術調査報告書(別冊)』にある富士火山地質図 富士急行 | 地図上に、栂尾山と鹿の頭が明記されている |
渡辺正臣(1971)『富士山と富士五湖(ブルー・ガイドブックス)』実業之日本社, p.182より引用
ツガヲ山 鹿の頭 |
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宮地直道(1988)『新富士火山の活動史』(CiNii(サイニイ)) | 地図と山名リスト |
石塚吉浩, 高田亮, 鈴木雄介, 小林淳,中野俊(2007)『トレンチ調査から見た富士火山北‐西山腹におけるスコリア丘の噴火年代と全岩化学組成』(CiNii, PDF) | 山名について「これらの名称は津屋(1968,1971)と宮地(1988)に従っている」と書かれている |
伊藤フミヒロ(2012)『富士山ハイキング案内』 「片蓋山と栂尾山」 東京新聞, 72 |
「富士山 火山土地条件図(2003, 国土地理院)」には、山名記載なし。
大室山の南東が「鹿の頭」、片蓋山の北西にあるのが「猪ノツブレ」。資料によっては、鹿の頭だけが書かれているのもある。
資料 | 備考 |
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小川孝徳(1971)『富士山総合学術調査報告書』 「溶岩洞穴の測量と観察結果」図41 大室山付近の溶岩の流下方向と溶岩洞穴の方向図 富士急行, 99 | 地図上に鹿の頭と明記され、地図の範囲はそこまで(片蓋山までは描かれていない) |
小川孝徳, 山本三郎(1971)『富士山』 寄生火山一覧図 朝日新聞社, 152 | 地図で、鹿ノ頭、猪のつぶれが示されている |
『富士・富士五湖(山と高原地図シリーズ) 』 昭文社, 1972, 1973, 1997 | 地図上に、鹿ノ頭、猪ノツブレが明記されている 上記『富士山』の小川氏の著者紹介に、著書/地図「富士と富士五湖」(昭文社)と書かれているので、1972年版は小川氏が編者であると思われる |
『富士山・御坂・愛鷹(山と高原地図シリーズ) 』 昭文社, 2007, 2008, 2009, 2012, 2014 | 地図上に、鹿の頭が明記されている |
千葉達朗ほか(2007)『航空レーザ計測にもとづく青木ヶ原溶岩の微地形解析』. 図17 大室山の北東側尾根の2本の共役正断層と大室山東溶岩湖.(PDF) | 地図上に、鹿の頭が明記されている |
『日本山名事典』 三省堂, 2011 しかのかしら 鹿の頭 いのつぶれ 猪ノツブレ ※緯度経度は世界測地系 |
「つがおやま」では、記載なく、「栂尾山」では次の一件のみ。
とがおやま(とがおさん、とがのおやま) 栂尾山 |
今までに見つかっている資料では、1971年に発行された『富士山総合学術調査報告書』にある「溶岩洞穴の測量と観察結果」図41が、大室山の南東にある山が「鹿の頭」となった始まりである。
初めにこの地図を見たときは、書かれていた場所が山頂付近からやや外れた野尻草原あたりだったので、この「鹿の頭」とは山名でなくて地名なのではないかと思っていた。上九一色村には、小字として鹿頭という地域がある(上九一色村誌. 上九一色村. 1985年. 44頁)。
しかしながら、小川孝徳氏の他の著書で、大室山の南東にある山を「鹿の頭」と書いているものがあり、確信的にこの山を「鹿の頭」とされていたことがわかった。
大正時代の文献と同様に、大室山の南東にある山を「栂尾山」、片蓋山の北西にある山を「鹿の頭」と、『富士火山地質図(1968)』に記した津屋弘逵氏は、小川氏の師であるらしい。
幸い国立公園協会により富士山総合学術調査が昭和四十四年から実施されてきた。私は地質部門担当の津屋東大名誉教授の下で、溶岩洞穴の研究を続けてきた。
(小川孝徳. 山本三郎. あとがき. 富士山. 朝日新聞社. 1971年(昭和46年). 178頁)
これを契機に、私は本格的に溶岩洞窟の調査を始めた。恩師津屋弘逵東大名誉教授と共に、会社の休みの土曜午後から日曜にかけて毎週のように富士の洞窟に出掛けた。
(小川孝徳. 謎の洞窟探検二十年. 中央公論. 中央公論社. 1981年9月号(昭和56年). 392頁)
日本火山洞窟学協会の会長、小川孝徳さん 〜中略〜 25年前、富士急行の宣伝部員だった小川さんは、富士急ハイランドに「富士科学館」をつくるため、当時の東大地震研所長、津屋弘逵(ひろみち)さんを案内した。「富士山の岩石や植物を採取して回った。このとき火山洞窟がたくさんあることを知り、のめり込んだのです」
「科学館」が完成してからも、独自に調査を続けた。毎晩遅くまで文献を調べ、週末には必ず富士を歩いて、新しい洞窟を発見した。専門家として、テレビや新聞、雑誌にも登場するようになった。
(火山洞窟 穴探し回り、もぐった25年間(筆ちはいく). 朝日新聞. 夕刊. 1988年2月17日. 5頁)
多くの書籍などの記述から、小川氏は今までの調査文献を読み、津屋氏と共に研究も行われていたということがわかる。はたして、どのような経緯で山の名前が違って伝ってしまったのだろうか、これは大いなる謎である。
登山・ハイキングの地図で定評の『山と高原地図』、および、山の情報を調べるときの基本となる『三省堂 日本山名事典』には「鹿の頭 & 猪ノツブレ」が記載されている。ネット上では「猪ノツブレ」は少ないながらも検索結果が得られるが、「栂尾山」の検索では、富士山麓の栂尾山はほとんど結果に現れない。ということで、現在では、「鹿の頭+猪ノツブレ」が断然優勢となっている。
1971年までは、確実に「栂尾山+鹿の頭」であったが、今は「鹿の頭+猪ノツブレ」に変わってしまった。
山の名前は誰が(どこが)決めているのか、そもそも名前はひとつなのかというのも、疑問だが。仮に、別名として表記すると、栂尾山(別名:鹿の頭)、 鹿の頭(別名:猪ノツブレ)だとややこしい。逆もまたしかり。
さらに情報があれば追記します。